当店の成り立ち

異色経歴の由緒ある個性的時計宝飾店

当店は明治時代より代々陸軍軍人の家系から戦後、平和祈念の信念もあり1950年に時計ジュエリー業界に関わり、ビートルズ日本公演があった時期{シングル曲ペイパーバック・ライター発売}であり、サイモン&ガーファンクルのサウンド・オブ・サイエンスの曲のシングル・レコードが発売された1966年の6月に福岡の東部、香椎において創業した異色の経歴の由緒ある個性的な時計宝飾店です。

時計職人として時計修理技術の追求や時計修理のより広い対応力を広げる努力は当然としてアートデザインやアンティークや歴史観を一貫性のある世界観として独自に表現する事をテーマとしています。そういう感じから格式伝統を重んじる雰因気ではありますが接客においては超庶民的であり商売に限らず人生相談等の要請も多々あり、そのようにお客様とのコミュニケーション第一で1960年代中期より、お蔭様で地元香椎で三代に渡り時計宝石商を営ませて頂き現在に至っております。

1960~1970年代の舶来・国産のアンティークウォッチとアンティーク懐中時計(1900年代もあり、現行品も有り)アンティーククロック(掛け時計、置き時計)等を揃えています。腕時計、懐中時計、当然の事ながら現行品にも対応しています。

時 計修理「現行品やアンティーク骨董の機械式やクォーツ式」や時計を長持ちさせる時計ケースやステンレスバンド超音波洗浄クリーニングやジュエリーのリ フォームやリングのサイズ直しやパールネックのワイヤー糸替えやスクラプ(留め金金具)などジュエリーリペアにも力を入れて取り組んでいます。

– 1番目写真、明治11年(1878)玉虫教七陸軍砲兵少尉(後、大尉) –

株式会社タマムシ時計宝飾店の軌跡

SHOP&FAMILY  HISTORY ~ 小さな時計店の一大叙事詩 ~

明治6年(1873)上杉謙信や伊達正宗と縁が深い山形県米沢に江戸時代以前より続く旧家{直接の先祖、玉虫清三郎{1780~1840}は江戸中期に三男として出生)に生まれた高祖父、玉虫初弥(はつや)は坂の上の雲の時代、明治27年(1895)日清戦争に従軍。{当時は歩兵兵卒。後,憲兵科に選抜され転籍}明治34年(1901)当時、日清戦争後、日本に割譲された台湾の管理をしていた台湾総督府の台湾守備混成第一旅団第13憲兵隊に赴任、明治37年(1905)陸軍憲兵下士官として日露戦争に従軍した。おそらくは奥将軍{福岡・小倉出身}率いる第2軍隷下の憲兵隊に所属していたと思われますが日露戦争に従軍した事は従軍した当時の日本軍将兵と同様に初弥にとっても生涯の誇りであったようです。{当時31歳}

(憲兵について・・・軍隊の警察司法部門。憲兵になるには他の兵科から志願者から勤務態度や身辺調査に合格し憲兵練習所に入所し法律関係の最終試験に合格した者が採用された。明治時代中期頃までは高いモラルが必要とされる事から士族出身者が多かったようである。

将校でなく下士官・兵であっても乗馬、軍刀、長靴、拳銃を装備する事ができた。他の兵科と違い昇進が遅く多くが伍長で予備役編入され軍曹、曹長、準士官にまで昇進できるのはごく一部の者だけであった。そのため縁の下の力持ちに徹して法令遵守を最目標とし軍のお目付け役として職務遂行に当たっていた。}

– 2番目写真、明治34年(1902)玉虫初弥陸軍憲兵軍曹 –

軍人の家系から時計宝石商へ

平和祈念と家族の絆の信条の継承

大正6年(1917)に素直(すなお。初弥の長男・明治25,年生。明治41年旧制米沢興譲館中学卒業{旧藩校}旧米沢村村議会議員)の次男として生まれた祖父幸喜(こうき)は父、素直と同じく旧制米沢興譲館中学を卒業後いったんは国鉄(現、JR東北。兄が新潟駅駅長をしていた。)の就職するも昭和13年{1938}1月、祖父初弥の影響と召集令状が来た事から幹部候補生{明治時代からあった高学歴者優遇の陸軍将校登用試験。適正、体格、勤務態度、試験、上官の推薦により少尉任官の将校の甲種、下士官任官の乙種に選別された}を志望し陸軍騎兵伍長になった。{難関な終末学科試験と厳しい身体検査と平素の勤務成績を選考、推薦され合格し騎兵科甲種幹部候補生となった。当時としては大柄で176センチ以上{当時成年男子平均160センチ}あり旧制中学時代は剣道と陸上競技の選手だった{当時の陸上競技大会で100m走,砲丸投げ,走り高跳び,走り巾跳びの4種目と剣道の大会で優勝している}

北海道・旭川の第7師団騎兵第7連隊に所属、昭和13年2月(1938)支那事変(対中国戦)に従軍。ここから日中戦争に突入、国は国家総動員法体制に入り、、昭和14年(1939)5月,ノモンハン事変(対ソビエト連邦{現ロシア)に従軍。昭和15年{1940}1月,日本軍{関東軍}から満州国軍武官採用試験に合格し満州国陸軍騎兵少尉に転籍し任官。{ここから予備役から現役となり職業軍人になった}奉天陸軍中央訓練処{奉天陸軍軍官{士官}学校騎兵科入校。同年7月,騎兵科を首席で卒業。同月,新京陸軍軍官学校教官任命。昭和16年12月8日,第2次世界大戦{大東亜戦争,太

平洋戦争}日本海軍南雲機動部隊{南雲第一航空艦隊司令長官は山形米沢出身で曾祖父の米沢興譲館中学の5期先輩だった}によるハワイ米国海軍基地奇襲攻撃により勃発。
国家戦時体制は一層強化され昭和17年(1942)3月,東京・新宿にあった陸軍戸山学校(明治6年創立。精鋭部隊指揮官養成機関で全国から選抜された小・中尉の将校と下士官[曹長、軍曹等]が入校した。明治天皇・小松宮彰仁親王、北白川能久親王、賀陽宮恒憲王等、特に皇族との縁が深い格式ある軍学校だった。陸軍大学校、陸軍士官学校以上の関係の深さがある)に選抜され派遣学生として入校(当時陸軍騎兵中尉・25歳。将校{指揮官}の歩兵戦技で両手軍刀術や合気道の創設者植芝盛平氏が顧問となり指導され研究されていた徒手格闘術等{当身技7割と言われる古伝合気道を基本としていた}の訓練や戦術研究と実戦訓練に勤しんだ。

– 3番目写真、昭和17年(1942)玉虫幸喜陸軍騎兵中尉(後、大尉) –

,同年6月,新京で義理兄が警察署長をしており実姉のお産の手伝いに来ていた祖母、徳子{福岡・新宮出身、大正10年生まれ。当時20歳}と偶然、警察署長と友人であったため紹介{昭和16年9月頃}されそれが縁で恋愛結婚。{当時は見合いがほとんどであった}同年10月15日,現在,東京都新宿区四谷三栄町の新宿歴史博物館がある付近で三栄公園の斜め前辺りの場所{旧東京市四谷区北伊賀町45番地。明治42年の地図によると陸軍中将男爵で日露戦争時軍務局長でその後東洋拓殖会社の初代総裁であった宇佐川一正の邸宅の一部であった。宇佐川中将は偶然にも明治7年に陸軍戸山学校を卒業している。日露戦争の旅順要塞戦や明治天皇崩御に際して殉死して有名な乃木希典将軍と日露戦争のプロジェクトリーダーで天才戦略家と謳われ満州軍総参謀長として活躍した児玉源太郎将軍とは青年時代から親しい間柄だったという。昭和12年と昭和17年の地図によると大久保炭屋と4棟のアパートになっており場所柄、陸軍戸山学校関係者やその他の軍学校の方が入居されていたと思われる。史料情報協力、新宿歴史博物館}で幸洋{ゆきひろ・長男}が出生。その9日後に体操剣術科優等賞を当時の軍学校校長、賀陽宮恒憲王陸軍少将から頂いている。昭和18年(1943)4月,満州の新京(現、中国の長春市)の同徳台陸軍軍官学校(昭和14年創立。満州国軍の陸軍将校(士官)養成学校。日本人、満州人、朝鮮人、台湾人の志ある優秀な若者が入校した歴史上唯一の軍学校。朴(パク・チョンヒ)元韓国第5代大統領、第18代朴(パク・クネ)大統領の父親)も同校出身者で祖父が戦術戦技や軍刀術を指導していた。)に再び赴任し生徒隊付教官兼区隊長。この頃外見や身長、スタイルも相まって軍の広報やモデルのような事もしていたらしく新京の大きな写真館には祖父の写真が多数あったといいます。昭和20年(1945)3月16日、次男である叔父が軍官学校官舎{新京市浄月区同徳台軍官学校官舎32番地}で出生。同月,騎兵大尉に任官。その半年もたたない8月9日、突然ソ連が日ソ中立条約を破棄しソ連対日参戦、8月11日、祖父の部隊は満州国国都警備軍に編入合流しそれを含む日本軍は約30万{準備不足により事実上の戦力}でまるで津波のような約158万のソ連軍と猛烈なすさまじい激闘戦に従軍戦闘するもその圧倒的な勢いに押し切られ,その4日後の15日、日本は限界を感じ連合国に涙を呑んで無条件降伏を受け入れ(8月6日に広島に原爆投下8月9日長崎に原爆投下、同日、ソ連対日参戦でトドメを刺された形となった。昭和20年2月、米ソ連合国のヤルタ会談でその流れは決まっていた。日本は連合国の合同戦略に完敗したと言える。既に昭和15年日独伊三国同盟締結した事から重大な戦略方針ミスをしており非常に悔やまれるがアメリカは日本が中国を自由にする事は国策上{中国を貿易拡大の戦略的地域としていた}絶対に許さなかった訳(日露戦争後オレンジ計画といって日本を仮想敵国として警戒はじめた)であり戦争はどちらにしてもいつかは戦わざえられない状況だったと思う。(ABCD経済封鎖もされており極限状態だった)だからといって戦争はしてはならなかった。後世の人間がどうのこうのいってもはじまらないが私達は近代史、日中戦争、太平洋戦争の史実を勉強し研究して教訓としなければならない義務があると個人的に思います。

– 4番目写真、昭和25年(1950)玉虫幸喜 ・時計ジュエリー業界へ –

太平洋戦争(大東亜戦争、第二次世界大戦)終戦、すぐさまソ連のスターリンによる強制的違法的非人道的な拉致拘束によりシベリア抑留。(終戦当時28歳から32歳。チェレンホーボー及びイルクーツク収容所に収監。隷下30度以上で1日10時間以上の極寒重労働不衛生,伝染病が蔓延,地獄の環境で多くの抑留者が亡くなった。イルクーツク収容所だけでも18029人拘束され犠牲者1511人。抑留者全体は約107万人{満州,朝鮮,樺太,千島}で犠牲者数は諸説あるが行方不明者含む軍人と民間人合わせて約50万人以上と言われている)され昭和24年12月,九死に一生を得て(運と極寒の雪国で育った事{山形県米沢は特別豪雪地帯で冬は-10°以上になる事がある寒冷地である}と武道の達人で体力があった事がプラスに作用したと思われる)祖国に帰還した。{帰還時は栄養失調等で顔がかなりむくんんでいたという} 他に帝国陸海軍軍人として先祖の親戚に玉虫教七陸軍砲兵大尉{1845~1895}、高祖父の親戚に北海道の屯田兵砲兵下士官の玉虫虎逸{1867~1917}、曾祖父の従兄弟に海軍軍医少将(旧制米沢興譲館中学、東京帝国大学医学部卒)だった玉虫雄蔵{1888~1968}がいる。

このように玉虫家は明治時代以来、代々軍人の家系でしたが死闘の連続を経験してこれからは平和第一主義、戦後の日本建設第一主義、家族の絆第一として自衛隊には行かず民間に就職する事を決意。

また当時アメリカのGHQが公職追放令(旧帝国陸海軍人将校の就職を厳しく制限した。上級階級の元軍人を抑圧する意図があった。)により待遇のいい仕事を見つける困難であった。そんな時妻、徳子(祖母)の義理の兄が中央区大手門で時計店を営んでおり、その親類の紹介で昭和25年(11950)昭和19年より存在する当時九州大手の福岡博多にある時計貴金属宝飾を扱う商事会社に就職。昭和41年(1966)福岡県福岡市の東部、香椎に(本当に価値がある本物にこだわり自分の感性の琴線に触れた品物を身に着ける)という独自の美意識「祖父は山形・米沢の実家が旧家だったため子供の頃、蔵があり、そこでよく遊んでいて骨董品が多く感性が培われたらしい)の思いを持って長男夫婦と共に時計宝飾品を扱うタマムシ時計宝飾店を興しました。

– 5番目写真、昭和41年(1966)香椎名店街にて創業・幸喜、幸洋、幸子-

三代目、志(祖父と父の遺志を受け継ぐ)とダンディズムの継承

俺流ダンディズムの原点

初代社長、幸喜(こうき)、二代目、幸洋(ゆきひろ)、三代目。幸人(ゆきと・地元香椎の千早病院で出生し香椎で育ち現在に至る)へと渡り志を受け継ぎ更に平和祈念信条を心に受け継ぎ家族とお客様との絆を胸に大切にし時計宝飾業一筋で現在に至っています。{おことわり。近代史や軍事や国防の事を書くことは政治的な事と密接な関わりがあり、それを書くことは憚られますが当店{当家}にとっては軍人の家系である以上避けて通る事の出来ない重要な事項であり齢10歳より近代史と軍事史と国防{あくまで平和国家を第一として世界情勢を念頭に置いたもの}を研究してまいりまして私の人生の一部となっております。自虐史観から真実の歴史認識は日本人にとっても、これからの青少年の教育にっとってもこれからの日本にとっても尊厳を確固たるものとして重要重大なテーマだと思っております。ただし社会的に様々な考えがありますので、あくまで個人的な人生観、思想、見解ですのでその点ご了承下さいませ。}

– 6番目、平成7年・2代目幸洋 –

祖父、幸喜と母校、山形県米沢市立窪田小学校寄贈の柱時計について。
祖父幸喜は九州の福岡の東区香椎で昭和61年、69歳の生涯を終えましたが終生、郷土愛と

母校愛が強かったらしく昭和50年代に山形県米沢市立窪田小学校{昭和4年卒}に柱時計を寄贈しています。米沢の中田町の玉虫家本家の大叔母{祖父幸喜の妹}によりますと現在も元気に時を刻んで動いているそうです。

父、幸洋と香椎商工会議所寄贈の丸型業務用掛け時計寄贈について。

父、幸洋(東京、四谷{現新宿区}生まれ、福岡・新宮育ち)は商売を営ませてもらっている地元香椎の街の香椎商工会議所に昭和60年に業務用掛け時計{クォーツ}を寄贈しました。当然現在も動いています。

コダワリの腕時計と懐中時計 祖父、幸喜は大変オシャレで英国のダンディズムの気風があり舶来のウォルサムやロンジンやオメガやIWCやラドーの腕時計や懐中時計を愛用してグランドセイコーは持っていましたがあまり祖父が国産時計をしていたのを見た事がありません。祖父は旧制中学の学生時代から英語が好きだったらしく旧制中学時代の写真と戦時体制に入っていたのにかかわらず陸軍将校時代の写真の裏には漢字ではなくまるでサインのようなローマ字で名前を記入していました。実際英語は好きだったそうで、漢(オトコ)のコダワリとダンディズムがあったのでしょう。)戦後はスーツもイギリス製のスリーピーススーツを好んで着ていました。
店にはドイツ製機械式柱時計のウルゴスを昭和40年代から店のメイン時計としていて使用していました。(祖父は子供の頃、遊んでいた実家の蔵にあった舶来・国産の骨董品を見て感性が高まり影響を受けたようである。)
私も子供の頃からそれらの祖父の感性やコダワリに影響され私も舶来時計と懐中時計に興味を持ちこだわるようになりました。
その流れでアンティーク時計と懐中時計の魅力を皆様にお伝えしたいと思いました。