コンニチハ!
福岡・香椎のアンティークウォッチ{懐中時計含、現行品有り}&独逸系
クラシックカメラ{ライカ、コンタックス}&時計修理&ジュエリー・リフォーム
今日も晴天で朝店に行くときはだいぶん涼しさを感じるのですが昼間になると日差しが
強く気温は30°以上あり暑いですね。今月の15日は終戦70年で我が国にとっていろんな
意味で意義深い節目の記念日でした。そして当店にとっても戦後70年というのはとても深い
関連があります。私の店は福岡県福岡市の東部の香椎にあり私自身も地元の香椎の病院
で3代目として生まれ地元で育ったのですが祖父の玉虫幸喜は大正6年に山形県米沢中田村
{現、中田町}に歴史ある旧家の次男として生まれ家系と時代の流れから軍人となり昭和12年、
支那事変から日中戦争に従軍、昭和14年、ノモンハン事変{対ソビエト連邦}に従軍し同年、第二次
世界大戦勃発、昭和15年、日独伊三国軍事同盟締結によりアメリカとの対立激化し厳しい経済封鎖
を受けで昭和16年11月、アメリカは絶対吞めない最後の提案のハルノートを突き付けてきて同年12月
、日本海軍は真珠湾のアメリカ海軍に攻撃し大東亜戦争{太平洋戦争}勃発、この時期、祖父幸喜は
陸軍中尉で満州国の同徳台陸軍軍官{士官}学校の教官をしており昭和17年から派遣学生として東京の
新宿区戸山にあった陸軍戸山学校{明治6年創立の明治天皇や皇族軍人にゆかりある軍学校}に入校し
精鋭部隊指揮官のための歩兵部隊戦術と歩兵戦技{軍刀術や徒手格闘術}の研究と猛訓練に励んでいまして
同年10月15日、東京市四谷北伊賀町{現、東京新宿区三栄町の新宿歴史博物館辺り。東京は明治時代より
軍都でありこの辺りには軍学校や軍関係施設が多くあり軍人家族が多く住んでいた地域だった}で父、幸洋
が出生しました。祖父幸喜25歳、祖母徳子21歳でした。翌18年に満州の都市新京にあった同徳台軍官学校
に戻り教官兼区隊長とし国境においてソ連軍を監視して警備していたらしいです。昭和20年3月16日、次男
の幸紀{叔父}が軍官学校官舎で出生。それから5ヶ月もたたない8月9日AM12時に突然ソ連が日ソ不可侵条約を
一方的に破棄し宣戦布告もせず襲来‘{ソ連対日参戦}、同時期、非人道的に原爆2発を研究を兼ねて投下され
その6日後、日本は連合国に無条件降伏の条件を吞み終戦にいたりました。祖父幸喜は国際法無視、非人道
的にソ連軍に抑留されソ連のイルクーツク収容所に昭和24年12月まで4年4ヵ月間、超極寒の中強制重労働を
課されていました。軍人、軍属、民間人を含めて65万人以上の日本人が拘束され25万人以上の方々が亡くなられた
といいます。祖母徳子{当時21歳}父幸洋{当時2歳10ヶ月}叔父幸紀{約生後5ヶ月}は陸軍将校の家族という事で
優遇があったのかわかりませんが幸運にも親子無事に帰国できました。この時期満州に取り残された民間
人の方々はソ連軍の非人道的な暴虐な行為で多くの方々が亡くなられたり相当の被害を受けました。本当に胸が痛み
ます。祖母も父も叔父も殺されていたか病死していたか祖母がいなければ残留孤児になっていた可能性は極めて
高かったと思いますので人ごとではない思いです。昭和24年12月末に祖父幸喜はソ連・イルクーツクから帰国する
事ができました。ほんとに無事に帰国できたか帰国できなかったのかは紙一重で運があっただけでどうなってもおかしく
はなかった状況でした。昭和25年、祖父幸喜は平和第一、家族第一の信念から警察予備隊{自衛隊の前身}に行かず妻
徳子の義理兄が福岡の天神で時計店を営んでおり義理兄の紹介で博多に戦前から続く時計宝飾を扱う商事会社に就職
。父、幸洋も祖父の影響で時計に関わる仕事に就きたいと時計修理職人を目指し祖父に就職先を紹介してくれた母方の
伯父の時計店で修行して昭和41年{1966}に自分の感性の琴線に触れた本物を身につけるという思いを持って祖父幸喜
、父幸洋、妻{私の母}幸子で福岡の東部、香椎でタマムシ時計宝飾店を興しました。
それからお蔭様で3代目、幸人が受け継ぎ現在に至っております。父幸洋は終戦70周年を待たずして58歳で他界しまし
たが弟幸紀{叔父}はお蔭様で元気で今年3月16日に満70歳を迎えました。自分がなんとか70歳にならせてもらったと
という思い、昭和20年8月9日、生後5ヶ月に満たなかった赤ん坊の時、約158万のソ連軍が奇襲をかけ侵攻してきた父、
母、兄、自分と一家全員、戦死、病死、暴虐行為で死んでもおかしくなかった。生き残る事は奇跡であり生き延びれた
としても中国残留孤児になっていた可能性は極めて高かった。日本の終戦70年、そして自分の70歳の誕生日、幸紀叔父
にとってはとてつもないくらい大きな意味合いと想いがあり今年の5月、私の自宅{九州玉虫家本家}に墓参りに来られ
ました。祖父幸喜{享年69歳}祖母徳子{享年60歳}父幸洋{享年58歳}で今生きているのは叔父だけであり仏壇の前で
微動だにせず手を合わせ瞑目する叔父の背中を見て感慨深くなり胸が熱くなりました。ちなみに満州・新京同徳台陸軍
軍官学校及び官舎はソ連軍が侵攻して際に破壊されたの叔父の赤ん坊の時の写真はありません。エピソードとして昭和
24年12月の年末に祖父幸喜はなんとか無事に祖国日本に帰ってこられてすぐ妻子の感激の対面となった訳ですが叔父
はその時5歳ちかくの幼児でしたが離れていて記憶にないので、父{祖父}に「おじさん、だぁれ?誰」と言ったらしいです。
父幸洋は小学1年生になっていてもちろん祖父の事は覚えていまいた。帰国した当時の祖父は33歳で劣悪な収容時生活
で栄養失調になっており顔や体が浮腫んではれていたそうです。我が息子二人とも奇跡的に助かった事に心から感謝し
ていましたが戦争と抑留で二人の息子の赤ん坊から5歳まで自分の手で育てる事ができなかった事が心に引っかかって
いたのか祖父は私{三代目、幸人}が赤ん坊の時からおしめを替えて育て長男夫婦と同居して69歳で亡くなるまで生涯、
私を傍から離しませんでした。そして私は祖父の薫陶、感性、愛情に影響を受けて育ち成人して店を継ぎました。
そういう第二次世界大戦そして終戦から現代のいきさつ、流れの中で思う事は祖父の平和祈念の信念・信条を受け継ぐ
事、悲惨な戦争の歴史を忘れない、風化させず語り継ぐ事、1852年のアメリカのペリー提督来航から1945年{昭和20}の
終戦までの近現代史の日本と列強諸国の動向の真実を学び研究する事、知りえた知識を人々に教えたり説明する事、
平和を尊び強く求めるがそれを維持する事は困難である現実を勉強して理解して平和維持の手段を考える事、平和を
考えるのは政治家だけではない、人ごとではない、我々一般国民も理解する必要があると個人的に上記に書いた事を
意識しています。{ 超長文で失礼しました、歴史好きで研究してまいりまして家系とリンクする部分があり思わず熱くなっ
てしまいます。あくまで個人的意見です。同じ有志で近現代史軍事研究会を趣味でやっています、興味ある方は声を掛け
て下さい}
昭和15年{1940} 満州国奉天 幸喜 陸軍騎兵少尉
昭和17年{1942}10月24日 山形県米沢玉虫家本家
祖父 幸喜 25歳 陸軍中尉 東京 陸軍戸山学校
派遣学生 歩兵部隊戦術及び戦技訓練研究
祖母 徳子21歳 父 幸洋 生後9日、左側曾祖母
昭和17年11月 東京市四谷区北伊賀町
{現、新宿区三栄町、新宿歴史博物館辺り}
祖母 徳子 父 幸洋 生後1ヶ月
昭和19年5月14日 満州国新京・同徳台
陸軍軍官学校官舎 父 幸洋 1歳9ヶ月
幸喜 陸軍中尉 教官兼区隊長
昭和20年3月16日 軍官学校官舎で叔父幸紀
が出生。同年8月9日ソ連侵攻、同月15日終戦、
ソ連軍から強制収監され昭和24年12月まで
シベリア抑留{ソ連・イルクーツク収容所収監}
同年12月30日帰国。昭和25年、福岡、博多の
時計ジュエリーを扱う商事会社に就職。昭和41
年、福岡、香椎でタマムシ時計宝飾店を興した。
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